黒鯛三平物語7

ドモドモ、黒鯛寅次郎です。

黒鯛三平時代の回顧録(笑)「黒鯛三平物語」もいよいよ(笑)第7回目です。
黒鯛三平物語6
では、はじめて釣りクラブに入部する経緯などなどでした。
俺を愛してくれるみなさん(爆)、読んでみてね♪

「黒鯛三平物語7」
チーム黒鯛の月例会は、そのシーズンの9月~翌年6月の10ヶ月でペナントを争う。

総匹数と最長寸、そしてちょっと分かり難いのだが、一釣行あたりの4匹長寸記録の上位3回を合計したもので争われていた。
もっともステイタスが高かったのは総匹数だ。

いまの俺の価値観(デカケリャOK)とはちがうが、ポイント選択、実力が測れるのはやはり匹数だろうと思う。
なにせ大きさは選べない。

年間最多枚数は、大体40~30枚くらいの間でトップを争うのが、このフィールドの相場だった。

もちろん、潮周りや天候のよい日にちばかりを選んで年間10回釣行すれば各自の枚数ももっと伸びるが、基本的に皆が出席できやすそうな日、他クラブの大会やほかの予約とぶつからない日を選ぶので、潮周りは後回しになりがちになっていた。

それと1月、2月、3月上旬の厳寒期も含まれるのでおのずと総枚数はその程度になる。

ポイントもアミダくじで順番を決めてから選ぶので、くじ運の悪い人は、何度も続けて「ポテチンなポイント」に入る事もあるので、好成績を残すのは、なかなか大変なのだ。

もちろん、俺の師匠のKさんは常に優勝候補の筆頭で毎年好成績を残していた。
そんなK師匠に憧れ、俺も入会しペナント参戦と相成ったわけだ。

新入部員である俺の指導もかねて、デビュー戦の9月は、K師匠と同磯した。
もちろん、俺も頼み込んで一緒にあがってもらったのだ。

これは、どんな世界でも通じる事だろうが、自分より上手な人の釣りを見て、一緒に釣りをして、同じ空気感を共有することはとても重要だ。

そして、だまって与えられるのを待っていれば、そのチャンスがあるわけではない事も付け加えておく。

誰だって、せっかくの磯釣り、ひとりで自分の釣りをしたい。だが、人に頼み込まれると悪い気はしない。だが、よっぽどのお節介かお人よしでない限り、上手の人のほうが一緒に、とは誘ってはくれない。ホンキで上達したければ食らいつく気概が無いと、どうしょうもない。

そういった面でのしつこさは、俺はどうやら生まれもって所有しているようで、釣りのほかに熱中した趣味でも、ボウリング、ビリヤード、空手、サイト作成、そして実社会でのビジネス。すべてにおいて師匠がいる。たいがい、相手の生活に影響が出るほど食らいついて教えを請うた。迷惑な奴だとも思うが、やはり、とにかく実力をあげる事が恩返しになると思っている。

さてさて。。。話をデビュー戦の1999年9月のチーム黒鯛月例会に戻そう。

場所は、いまは、とびしま海道が全通しあび大橋を渡れば気軽に行く事ができるようになったが、当時は蒲刈の大浦発のフェリーに乗っていくか、あけぼの渡船を利用しなくてはいけなかった、中ノ島のポイントだ。

干潮時には底が現われ、潮は速く、左から右へ激しく流れる。
上げ潮の6分くらいから満潮、下げ始めくらいが勝負のポイントだ。

この九月までにビッチリ師匠にくっついて色々指導を受け、また釣りも何度かご一緒させていただいていたおかげで、早い潮にも臆すさないようになってはいたが、やはり元々、防波堤のダンゴ釣りが出発点であっただけに、うーーーーん。。。と悩みこむ。

このスピードの潮(分速30メートルくらいウキが流れるくらい??)でも、しっかりエサトリのクサブグちゃんは大活躍。さてさて、と悩んでいたら。
「よーい、チヌ来たぞ」
と早速ヒットさせている。もちろん潮下に入ってくれていて、しかもなんの引っかかり、つまりキモになるポイントがないような場所で、まさに「寄せて釣る」を実践されていた。

「なんなら、こまいのぉ~」
と、師匠。師匠の魅力であり弱点でもある豪放さ。なんと、30センチはゆうに超えているサイズをごぼうヌキ!!!
ボッチャーーーーーン
「あ゛―――、横着したらバチが当たったのぉ」
と、悔しがっている。
「まあ、これは、この時期はフグが多いから横着したらいけんで、という見本を、あんたに見せちゃったんよ!」と、茶目っ気たっぷりに話す。そしてひと言
「やっぱり、ワシのほうが先にかけたのぉ~ハッハッハッ」

しかし、その一言でゴールデンルーキーの闘志に火がついたのかどうかは分かりませんが(笑)、刺戟をうけて、集中してフカセをした。
とにかく、ファーストステップの
「美しく流す」
これだけに集中。サシエサを先行させ、マキエサの帯と忠実にあわせる。
(たったこれだけの事がどれだけ重要なのか、いま実感している)
と、その刹那、ウキがひったくられるように水中に引きずり込まれていった!
あわせを入れると、

ゴンッッッ
ギュンギュンギュンギュンとロッドが悲鳴を上げるほどの手ごたえ。

「なっ?なっ?なっ???」
速流にもまれている芸予のチヌのパワーとスピードは群を抜いています。
これは、宇和島や広島湾でもけっこう釣り込んだいまでもそう思います。

特に、大崎のチヌは強い。

その強烈な引きにアタフタしていた俺に、半ば呆れ顔で師匠が近寄ってくる。
「なーにしょんなぁ、この時期のチヌはこまくても引くんじゃけ、焦らんとさっさと寄せぇや(笑)」
と、からかいます。それでもチヌはいっこうに寄って来ません。
「で、でも、寄らないんですぅ(涙)」
「しょうがないのぉ~(笑)」と師匠。
何度かキツーイ締め付けをかわし、チヌが姿を見せる。。

「わっは!こりゃデカイわ、引っ張るはずじゃわい」
ささっとタモ網をもって駆けつけてくださり、爽やかにすくってくれた。
そのチヌのサイズは46.5センチ。黒鯛三平物語4で、スカリを突き破って逃げてしまったチヌよりはひと回り小さい感じだったが、「証人のいるチヌ」では、もちろん当時・最高記録のチヌだ。
引きの強さと、嬉しさで、しばし放心状態になっていたが

「なにをポケッとしとんな!いま地合じゃ、さっさと釣れ!!!」
と、師匠に尻を叩かれ、持ち場に着く。そこからは、しばらく師匠は後ろについていてくれた。まさに地合の時なのに、である。
攻める場所、タナ、流すスピード、マキエサとあわせるタイミングを事細かく指導してくださり、早速もう1匹40センチクラスを追加。
「あとは好きにやりんさい」と、師匠も釣り座に戻る。

そのあと、師匠も俺もヒットせず、貴重な時間をもらったことを感謝した。

とはいえ、正直いうと、その時はその指導の「ありがたみ」という物が、いまいち分かっていなかった。釣りに対する知識も少なかった。
いま考えると、あの日は、師匠はまる1日、俺の指導とサポートをしていたようなものだ。

うろ覚えではあるか、年間枚数優勝の二連覇が掛かっていた年だったと思う。

いま、多少、釣りに関して知識と経験をつんでみて、あの頃のことを考えると、本当に感謝感謝である。とても真似できる物ではない。

やはり恩返しするには、俺が日本記録を釣るしかないのかなぁ・・などと、都合の良いことを考えていたりする(笑)
師匠を撃沈させてしまった事はいまでも申し訳ないと思うが、俺のチーム黒鯛デビュー戦は、46.5センチと40センチクラス2枚と上々の滑り出しだった。

各メンバーもそこそこ釣っていて、連覇の掛かっていた師匠に益々申し訳なかった気がした、黒鯛寅次郎、当時・黒鯛三平27歳の秋のことであった。

つづく

黒鯛三平物語6

ドモドモ、寅です♪

以前、書き進めていた「黒鯛三平物語」
最近、週末の天気や家族サービスで、ちょっと釣りもひと段落しているので、心を高めるために(笑)連載再スタートです。

黒鯛三平物語5では、1999年の春に初めて、師匠のKさんに修行をつけてもらった所で終了している。

人間の記憶は曖昧なものだか、この頃から既に俺は「釣り日記」のようなものをつけていたから、その日記を紐解きながら、そして記憶の糸を紐解きながらなので、大体正確な内容ではある。

師匠は、どちらかというと豪快奔放な方で、釣りの稽古は非常に厳しかった。
どのくらい厳しかったかというと。
俺「そんなこと言ってもできないよ・・・ブツブツ」
師匠「ええい、やかましぃぃいい。さっさとやらないと貴様の首をへし折るぞ、俺は貴様を殺したくてウズウズしているんだ」
と、悟飯君とピッコロさんの修行ほど厳しかった。(嘘)

17時には終業する環境で、毎日、師匠の釣具屋さんに日参し教えを頂いていた。

当時は、仕事中も「ほぼ頭の中は釣りの事」だったのでいくらでも質問があった。

ありとあらゆるフカセ釣りに関する、黒鯛の生態に関する質問を繰返した。
今思うと、とにかく初歩的な質問の範囲で、師匠としては面白い会話でもなかったろうと思う。

そもそも、自分がどうしてここまで黒鯛釣りというミッションに熱くなったのか、そして今ではこの釣りに対して「宿命」めいたものすら感じるのかは、謎のままである。

人には色々な出会いがある。

人生で一番重要な出会いは、添い遂げる女性との出会いだと思う。幼少期、青年期を過ぎ、己の家庭を築く過程で必要不可欠な妻となる人との出会い。

離婚、再婚を繰返す人もいるので「生涯の出会い」とも言えなくなってきた昨今ではあるが、人生の大半をともに暮らすパートナーとの出会いは重要だと確信している。

そして、友人との出会い、仲間との出会い。ここで友人と仲間を分けたのは訳がある。

友人というのは、何のしがらみも上下関係もなく気の置けない存在でなくてはならない。かたや仲間というのは、ある程度の上下関係も生じ、そして、ある種の目標に向ってともに切磋琢磨し、時には競争すらしていくのが仲間なのではないだろうか?

釣り仲間、仕事仲間、といろいろあるが、やはり男と男が向かい合うときはある種の競争心、もしくは上下関係、依頼心、尊敬心などが必要不可欠であると思う。

そんな出会いと別れを繰返して人生というものは幾重にも重ねていかれた経験というもので構成され、人格というものが形成されていくのだと感じている。

話を巻き戻せば、ダンゴ釣りを始めたときも、そこで指導を受けることができる師匠に出会えていた。

そして、チヌのフカセ釣りをスタートした時、俺は良い師匠との出会いという運があった。

ここで師匠と俺が最初に所属したクラブについて少し語ろうか。

師匠も元々はサラリーマンだった。釣りが好きで好きでどうしようもなく、釣具屋を開かれたそうだ。
元々は、キャスター。つまり投げ釣りから名を馳せておられた方で、石鯛釣りもやられていたそうだ。
投げ釣りでは80センチ級の真鯛、50センチ級のアコウを釣り上げられている一流のアングラーだった。

そんな師匠もフカセ釣りに没頭し、自分の釣具屋さんを訪れる人や友人などとチヌフカセ釣りクラブ「TEAM黒鯛」を発足された。
おそらく20年ほど前の話だと思う。20年ほど前に本格的なチヌフカセ釣りクラブというのは、かなり珍しかったはずだ。少なくとも呉地区では。

同クラブは、9月~6月の期間で毎月一回の月例会を開催し、総匹数、4匹長寸、1匹長寸などを年間で競い合い、師匠は抜群の強さを誇っていた。

当時は、現在のように瀬戸内も高水温でなく、特に潮流の流れが速い蒲刈を中心とした海域では他地区より基本水温が低く、黒鯛の平均的な大きさは小振りだった。

50センチを超える「年無しチヌ」は、それこそ年に一匹出るか出ないか。これは一人で、の話ではなく「渡船全体で」の話だ。

それを示すように、現在、あけぼの渡船が渡しているポイントの名前に「48」という名前がある。今ではさほど取り立てたサイズでもないが当時は48センチのチヌは稀だったためついたポイント名だ。

そんな中、師匠は大崎下島の向い側にある三角という島の、「見た感じではチヌのポイントらしからぬ場所」で54センチの黒鯛を釣り上げられている。

いまでも、同クラブの最長寸記録(瀬戸内)のはずだ。

やはり、釣りに没頭し、人生を捧げ、そして釣り界に貢献する人には、こういった釣果があるものだ。

たしかに、驚愕のビギナーズラックもあるが、驚愕のビギナーズラックよりも、そういった確率のほうが高いと俺は思う。
そんな師匠のフカセ釣りの実力は、齢60歳となられた今でも、現在の俺より遥かに上回っておられる、と断言できる。
師匠は基本的に「超タフ」なのだ。名人といわれる方々の特長である。

店がひまなら、奥様に任せて週に3回も4回も磯に出る。基本的に未開拓のポイントを攻めたり、あまり人が釣れないポイントの攻略法を探るための釣りをなされる。

地元の釣具屋さんなので、あまりトーナメントなどに出られる事もないが、それでも、たまに出場された大会では上位に入賞されていた。
いまでは、どのような雰囲気で運営されているかは知り様もないが、俺が所属していた当時は「チヌ釣りが上手くなりたい」そして「釣りが上手くてナンボ」という、かなりハイテンションな空気がプンプン漂っていたイケイケ集団だった。

そして、とても強いクラブだった。

同地区のチヌ釣りクラブなどとなんどか対抗戦をしたが、俺が所属していた4年間は不敗だった。
広島湾をテリトリーにしているクラブに、広島湾で勝負しても圧勝した。
1999年秋、そんなクラブに、俺は正式に入会する事になった。
黒鯛三平物語1
黒鯛三平物語2
黒鯛三平物語3
黒鯛三平物語4
黒鯛三平物語5