黒鯛三平物語7

ドモドモ、黒鯛寅次郎です。

黒鯛三平時代の回顧録(笑)「黒鯛三平物語」もいよいよ(笑)第7回目です。
黒鯛三平物語6
では、はじめて釣りクラブに入部する経緯などなどでした。
俺を愛してくれるみなさん(爆)、読んでみてね♪

「黒鯛三平物語7」
チーム黒鯛の月例会は、そのシーズンの9月~翌年6月の10ヶ月でペナントを争う。

総匹数と最長寸、そしてちょっと分かり難いのだが、一釣行あたりの4匹長寸記録の上位3回を合計したもので争われていた。
もっともステイタスが高かったのは総匹数だ。

いまの俺の価値観(デカケリャOK)とはちがうが、ポイント選択、実力が測れるのはやはり匹数だろうと思う。
なにせ大きさは選べない。

年間最多枚数は、大体40~30枚くらいの間でトップを争うのが、このフィールドの相場だった。

もちろん、潮周りや天候のよい日にちばかりを選んで年間10回釣行すれば各自の枚数ももっと伸びるが、基本的に皆が出席できやすそうな日、他クラブの大会やほかの予約とぶつからない日を選ぶので、潮周りは後回しになりがちになっていた。

それと1月、2月、3月上旬の厳寒期も含まれるのでおのずと総枚数はその程度になる。

ポイントもアミダくじで順番を決めてから選ぶので、くじ運の悪い人は、何度も続けて「ポテチンなポイント」に入る事もあるので、好成績を残すのは、なかなか大変なのだ。

もちろん、俺の師匠のKさんは常に優勝候補の筆頭で毎年好成績を残していた。
そんなK師匠に憧れ、俺も入会しペナント参戦と相成ったわけだ。

新入部員である俺の指導もかねて、デビュー戦の9月は、K師匠と同磯した。
もちろん、俺も頼み込んで一緒にあがってもらったのだ。

これは、どんな世界でも通じる事だろうが、自分より上手な人の釣りを見て、一緒に釣りをして、同じ空気感を共有することはとても重要だ。

そして、だまって与えられるのを待っていれば、そのチャンスがあるわけではない事も付け加えておく。

誰だって、せっかくの磯釣り、ひとりで自分の釣りをしたい。だが、人に頼み込まれると悪い気はしない。だが、よっぽどのお節介かお人よしでない限り、上手の人のほうが一緒に、とは誘ってはくれない。ホンキで上達したければ食らいつく気概が無いと、どうしょうもない。

そういった面でのしつこさは、俺はどうやら生まれもって所有しているようで、釣りのほかに熱中した趣味でも、ボウリング、ビリヤード、空手、サイト作成、そして実社会でのビジネス。すべてにおいて師匠がいる。たいがい、相手の生活に影響が出るほど食らいついて教えを請うた。迷惑な奴だとも思うが、やはり、とにかく実力をあげる事が恩返しになると思っている。

さてさて。。。話をデビュー戦の1999年9月のチーム黒鯛月例会に戻そう。

場所は、いまは、とびしま海道が全通しあび大橋を渡れば気軽に行く事ができるようになったが、当時は蒲刈の大浦発のフェリーに乗っていくか、あけぼの渡船を利用しなくてはいけなかった、中ノ島のポイントだ。

干潮時には底が現われ、潮は速く、左から右へ激しく流れる。
上げ潮の6分くらいから満潮、下げ始めくらいが勝負のポイントだ。

この九月までにビッチリ師匠にくっついて色々指導を受け、また釣りも何度かご一緒させていただいていたおかげで、早い潮にも臆すさないようになってはいたが、やはり元々、防波堤のダンゴ釣りが出発点であっただけに、うーーーーん。。。と悩みこむ。

このスピードの潮(分速30メートルくらいウキが流れるくらい??)でも、しっかりエサトリのクサブグちゃんは大活躍。さてさて、と悩んでいたら。
「よーい、チヌ来たぞ」
と早速ヒットさせている。もちろん潮下に入ってくれていて、しかもなんの引っかかり、つまりキモになるポイントがないような場所で、まさに「寄せて釣る」を実践されていた。

「なんなら、こまいのぉ~」
と、師匠。師匠の魅力であり弱点でもある豪放さ。なんと、30センチはゆうに超えているサイズをごぼうヌキ!!!
ボッチャーーーーーン
「あ゛―――、横着したらバチが当たったのぉ」
と、悔しがっている。
「まあ、これは、この時期はフグが多いから横着したらいけんで、という見本を、あんたに見せちゃったんよ!」と、茶目っ気たっぷりに話す。そしてひと言
「やっぱり、ワシのほうが先にかけたのぉ~ハッハッハッ」

しかし、その一言でゴールデンルーキーの闘志に火がついたのかどうかは分かりませんが(笑)、刺戟をうけて、集中してフカセをした。
とにかく、ファーストステップの
「美しく流す」
これだけに集中。サシエサを先行させ、マキエサの帯と忠実にあわせる。
(たったこれだけの事がどれだけ重要なのか、いま実感している)
と、その刹那、ウキがひったくられるように水中に引きずり込まれていった!
あわせを入れると、

ゴンッッッ
ギュンギュンギュンギュンとロッドが悲鳴を上げるほどの手ごたえ。

「なっ?なっ?なっ???」
速流にもまれている芸予のチヌのパワーとスピードは群を抜いています。
これは、宇和島や広島湾でもけっこう釣り込んだいまでもそう思います。

特に、大崎のチヌは強い。

その強烈な引きにアタフタしていた俺に、半ば呆れ顔で師匠が近寄ってくる。
「なーにしょんなぁ、この時期のチヌはこまくても引くんじゃけ、焦らんとさっさと寄せぇや(笑)」
と、からかいます。それでもチヌはいっこうに寄って来ません。
「で、でも、寄らないんですぅ(涙)」
「しょうがないのぉ~(笑)」と師匠。
何度かキツーイ締め付けをかわし、チヌが姿を見せる。。

「わっは!こりゃデカイわ、引っ張るはずじゃわい」
ささっとタモ網をもって駆けつけてくださり、爽やかにすくってくれた。
そのチヌのサイズは46.5センチ。黒鯛三平物語4で、スカリを突き破って逃げてしまったチヌよりはひと回り小さい感じだったが、「証人のいるチヌ」では、もちろん当時・最高記録のチヌだ。
引きの強さと、嬉しさで、しばし放心状態になっていたが

「なにをポケッとしとんな!いま地合じゃ、さっさと釣れ!!!」
と、師匠に尻を叩かれ、持ち場に着く。そこからは、しばらく師匠は後ろについていてくれた。まさに地合の時なのに、である。
攻める場所、タナ、流すスピード、マキエサとあわせるタイミングを事細かく指導してくださり、早速もう1匹40センチクラスを追加。
「あとは好きにやりんさい」と、師匠も釣り座に戻る。

そのあと、師匠も俺もヒットせず、貴重な時間をもらったことを感謝した。

とはいえ、正直いうと、その時はその指導の「ありがたみ」という物が、いまいち分かっていなかった。釣りに対する知識も少なかった。
いま考えると、あの日は、師匠はまる1日、俺の指導とサポートをしていたようなものだ。

うろ覚えではあるか、年間枚数優勝の二連覇が掛かっていた年だったと思う。

いま、多少、釣りに関して知識と経験をつんでみて、あの頃のことを考えると、本当に感謝感謝である。とても真似できる物ではない。

やはり恩返しするには、俺が日本記録を釣るしかないのかなぁ・・などと、都合の良いことを考えていたりする(笑)
師匠を撃沈させてしまった事はいまでも申し訳ないと思うが、俺のチーム黒鯛デビュー戦は、46.5センチと40センチクラス2枚と上々の滑り出しだった。

各メンバーもそこそこ釣っていて、連覇の掛かっていた師匠に益々申し訳なかった気がした、黒鯛寅次郎、当時・黒鯛三平27歳の秋のことであった。

つづく

黒鯛三平物語6

ドモドモ、寅です♪

以前、書き進めていた「黒鯛三平物語」
最近、週末の天気や家族サービスで、ちょっと釣りもひと段落しているので、心を高めるために(笑)連載再スタートです。

黒鯛三平物語5では、1999年の春に初めて、師匠のKさんに修行をつけてもらった所で終了している。

人間の記憶は曖昧なものだか、この頃から既に俺は「釣り日記」のようなものをつけていたから、その日記を紐解きながら、そして記憶の糸を紐解きながらなので、大体正確な内容ではある。

師匠は、どちらかというと豪快奔放な方で、釣りの稽古は非常に厳しかった。
どのくらい厳しかったかというと。
俺「そんなこと言ってもできないよ・・・ブツブツ」
師匠「ええい、やかましぃぃいい。さっさとやらないと貴様の首をへし折るぞ、俺は貴様を殺したくてウズウズしているんだ」
と、悟飯君とピッコロさんの修行ほど厳しかった。(嘘)

17時には終業する環境で、毎日、師匠の釣具屋さんに日参し教えを頂いていた。

当時は、仕事中も「ほぼ頭の中は釣りの事」だったのでいくらでも質問があった。

ありとあらゆるフカセ釣りに関する、黒鯛の生態に関する質問を繰返した。
今思うと、とにかく初歩的な質問の範囲で、師匠としては面白い会話でもなかったろうと思う。

そもそも、自分がどうしてここまで黒鯛釣りというミッションに熱くなったのか、そして今ではこの釣りに対して「宿命」めいたものすら感じるのかは、謎のままである。

人には色々な出会いがある。

人生で一番重要な出会いは、添い遂げる女性との出会いだと思う。幼少期、青年期を過ぎ、己の家庭を築く過程で必要不可欠な妻となる人との出会い。

離婚、再婚を繰返す人もいるので「生涯の出会い」とも言えなくなってきた昨今ではあるが、人生の大半をともに暮らすパートナーとの出会いは重要だと確信している。

そして、友人との出会い、仲間との出会い。ここで友人と仲間を分けたのは訳がある。

友人というのは、何のしがらみも上下関係もなく気の置けない存在でなくてはならない。かたや仲間というのは、ある程度の上下関係も生じ、そして、ある種の目標に向ってともに切磋琢磨し、時には競争すらしていくのが仲間なのではないだろうか?

釣り仲間、仕事仲間、といろいろあるが、やはり男と男が向かい合うときはある種の競争心、もしくは上下関係、依頼心、尊敬心などが必要不可欠であると思う。

そんな出会いと別れを繰返して人生というものは幾重にも重ねていかれた経験というもので構成され、人格というものが形成されていくのだと感じている。

話を巻き戻せば、ダンゴ釣りを始めたときも、そこで指導を受けることができる師匠に出会えていた。

そして、チヌのフカセ釣りをスタートした時、俺は良い師匠との出会いという運があった。

ここで師匠と俺が最初に所属したクラブについて少し語ろうか。

師匠も元々はサラリーマンだった。釣りが好きで好きでどうしようもなく、釣具屋を開かれたそうだ。
元々は、キャスター。つまり投げ釣りから名を馳せておられた方で、石鯛釣りもやられていたそうだ。
投げ釣りでは80センチ級の真鯛、50センチ級のアコウを釣り上げられている一流のアングラーだった。

そんな師匠もフカセ釣りに没頭し、自分の釣具屋さんを訪れる人や友人などとチヌフカセ釣りクラブ「TEAM黒鯛」を発足された。
おそらく20年ほど前の話だと思う。20年ほど前に本格的なチヌフカセ釣りクラブというのは、かなり珍しかったはずだ。少なくとも呉地区では。

同クラブは、9月~6月の期間で毎月一回の月例会を開催し、総匹数、4匹長寸、1匹長寸などを年間で競い合い、師匠は抜群の強さを誇っていた。

当時は、現在のように瀬戸内も高水温でなく、特に潮流の流れが速い蒲刈を中心とした海域では他地区より基本水温が低く、黒鯛の平均的な大きさは小振りだった。

50センチを超える「年無しチヌ」は、それこそ年に一匹出るか出ないか。これは一人で、の話ではなく「渡船全体で」の話だ。

それを示すように、現在、あけぼの渡船が渡しているポイントの名前に「48」という名前がある。今ではさほど取り立てたサイズでもないが当時は48センチのチヌは稀だったためついたポイント名だ。

そんな中、師匠は大崎下島の向い側にある三角という島の、「見た感じではチヌのポイントらしからぬ場所」で54センチの黒鯛を釣り上げられている。

いまでも、同クラブの最長寸記録(瀬戸内)のはずだ。

やはり、釣りに没頭し、人生を捧げ、そして釣り界に貢献する人には、こういった釣果があるものだ。

たしかに、驚愕のビギナーズラックもあるが、驚愕のビギナーズラックよりも、そういった確率のほうが高いと俺は思う。
そんな師匠のフカセ釣りの実力は、齢60歳となられた今でも、現在の俺より遥かに上回っておられる、と断言できる。
師匠は基本的に「超タフ」なのだ。名人といわれる方々の特長である。

店がひまなら、奥様に任せて週に3回も4回も磯に出る。基本的に未開拓のポイントを攻めたり、あまり人が釣れないポイントの攻略法を探るための釣りをなされる。

地元の釣具屋さんなので、あまりトーナメントなどに出られる事もないが、それでも、たまに出場された大会では上位に入賞されていた。
いまでは、どのような雰囲気で運営されているかは知り様もないが、俺が所属していた当時は「チヌ釣りが上手くなりたい」そして「釣りが上手くてナンボ」という、かなりハイテンションな空気がプンプン漂っていたイケイケ集団だった。

そして、とても強いクラブだった。

同地区のチヌ釣りクラブなどとなんどか対抗戦をしたが、俺が所属していた4年間は不敗だった。
広島湾をテリトリーにしているクラブに、広島湾で勝負しても圧勝した。
1999年秋、そんなクラブに、俺は正式に入会する事になった。
黒鯛三平物語1
黒鯛三平物語2
黒鯛三平物語3
黒鯛三平物語4
黒鯛三平物語5

自分史 黒鯛三平物語5

初の大型黒鯛をゲット、そして痛恨の悲劇を味わったオイラ。

詳しくは
自分史 黒鯛三平物語3
自分史 黒鯛三平物語4にて。

再び、あの黒鯛をゲットするためには、もうビギナーズラックに頼っていてはあかん。腕を磨くのだ、と悟った。
技を磨き、釣りを学ぶ、これにつきると・・・。

悲劇の結納前日を過ぎ、そして結納を済ませ、4月、K師匠と始めての磯上がり。

あけぼの渡船(あけぼの釣具川尻店)にて、場所は下蒲刈の瀬戸のA、もしくは瀬戸の一番と呼ばれていた一級ポイントだ。
ここは、そののちに、オイラをTEAM黒鯛に勧誘してくれたMさんが年無しをとった場所だ。

大工のI田くんも同磯し、I君はちょっと離れた場所へ歩いて移動して行った。

のちに、このI君を絡めた人間模様などなどが原因でオイラはTEAM黒鯛を去ることになるのだ。I君とは仲良しだし、それだけが理由ではないんだけどね。

今でこそ、あけぼの丸の渡すポイントを代表する、上黒島と下黒島だが、当時は、まだまだ開拓段階のポイントだった。それ以前は倉橋マリンなどの渡船も使っていたようだが、どのみちメジャーなスポットとは言えず、それにフカセ釣り自体がどちらかといえば「少数派」な釣りだったと思う。

ポイントに降り立ってから、まず仕掛けを作る。自分なりに作ってみたが、やはり、本やメーカーサイドの紹介を鵜呑みにした、アレもコレもチャラチャラつける奇奇怪怪な仕掛けだった。

Kさんの指示で、極シンプルな仕掛けにチェンジ。
ウキ止め
ウキ
ゴム管
直結
ハリス
ガン玉
ハリ
たったこれだけの、最強の仕掛けだ。

オイラがチヌ釣りでシンプルな仕掛けを好むのはこのときからだと思う。

いろいろナビや水中ウキなどなど駆使した仕掛けを否定するつもりは無いのだが、「意味も分からず使っていたり」する場合が多いことと、なによりトラブルが増える、トラブルが起こったときに仕掛けを作り直す時間がかかることが、最大の弱点だろう。

マキエの撒き方、潮にのせる流し方、まじで1から10まで、というより0から教えてもらった。うまい事、仕掛けを流せているときに褒めてもらえたときの嬉しさを思い出すと今でもこみ上げるものがある。

オイラもオッサンになって、ベアちゃんや、その昔、サイトを通じて知り合った散髪屋のT君などに指導したことはあったけど、この時教えてもらったように、ワクワクする気持ちを伝えるように教えることができているだろうか、そう思うと、できていないなぁ。。。と思う。

(つづく)

自分史 黒鯛三平物語4

黒鯛寅次郎です。

黒鯛三平物語4です。

TEAM黒鯛さんに入部し、腕を磨く決意をする、その
きっかけとなったある事件の悲しい結末(笑)です。

1999年3月20日、己では想像だにしていなかったサイズのチヌを手中に収め、陶酔しきっていたオイラだったが、釣りの神様はそんなオイラに試練を与えたもうた。

海は荒れ、肌寒い小雨がそぼ降っていたなか、目標は達成していたが更なる黒鯛を目指して釣りに没頭していた、オイラの足元を大きな黒鯛の魚影が見えた。

「!」
ターゲットは思わず大胆だ。これはまだまだいけるぞ!!と思った矢先だった。脳裏に一抹の不安がよぎった。

風とうねりで、黒鯛二匹を入れていたスカリがかなり波に洗われていたのを思い出した。
まさかとは思いながらも、スカリを入れてあった場所ま急ぐ。

スカリは相変わらず波で揺らされていたが、先ほどとは様子が違っていた。先ほどまでは、内容物の重量(40センチ級一匹と50センチ弱一匹でおおよそ3キロくらいはあったであろう)を必死でこらえながらギシギシと窮屈そうに揺れていたスカリが、いまは軽やかに舞う蝶のように自由に荒れ狂う波を泳いでいた。

これほどまでに愕然としたことが、それまでの人生、そして1999年3月20日から今に至るまであっただろうか?

振り返ってみるとこれほど愕然としたことは思い当たらない。いや、もう一度あった。飼っていた猫が死んだときだ。

猫の名前は「ガム」。20歳前後の頃にほんの少しの期間だけ飼っていた愛おしい猫だった。夜中に歩いてタバコを買いに行く途中(当時はヘビースモーカーだった)に、ゴミ捨て場で子猫の泣き声がした。無類の猫好きのオイラは頭のひとつでも撫でてやろうと、子猫の姿を探した。しかし、泣き声が尋常ではない。まさに「命の叫び」という感じだった。

その悲鳴にも似た泣き声は、どうもゴミの山の中から聞こえてくる。ごみを懸命にのかせると小さなゴミ袋の中から(当時は市指定のゴミ袋ではなかった)子猫は悲鳴を上げていた。きつく閉じられた袋の中に手のひらに乗っかるくらいの子猫が捨てられていた。ごみの中に一緒に入っていたガムの噛んだカスが毛に絡みまとわりつき、子猫は瀕死の状態だった。

オイラは懸命に看護した。ほとんど意識がなくなっていたが、毛にまとわりついていたガムをハサミでカットしている途中で、猫の足の皮を少し切ってしまった。フギャーと猫は痛がって、思い出すと今でも申し訳なくなるが、どうもそれが「気付け」になったらしく、意識を取り戻した。ミルクを与え元気を取り戻した子猫を「ガム」と名づけた。

当時、市営住宅に住んでいたので数ヶ月一緒に暮らしたが、規則が割とうるさかったため、ガムは祖母の家に引っ越した。祖母の家は線路沿いでガムは数ヵ月後に電車に引かれて死んでしまった。その知らせを聞いたときはかなり愕然とした。ただ、いまでもガムとの思い出はオイラの脳裏に深く刻み込まれている。

話を1999年3月20日の蒲刈の磯場に戻そう。

ばけしく揺られている空っぽになったスカリを水揚げしてみると、スカリのそこがスッカリ開いていた。閉じていた尻の部分が部分が重さに耐え切れず大きな口をあけていた。
sukari.jpg
思えば、3000円程度で売っていたスカリの値段を惜しんで、その横に申し訳なさそうに並んでいた安物の680円なりのスカリを選んでしまったオイラのケチさ加減が招いた大失敗だった。

翌日の結納で振舞うはずの、当時の自己最高記録を大きく更新した黒鯛と食べごろの40センチクラスの黒鯛は元気に海に戻っていった。彼女達の「生き運」がオイラの釣り師としての運を大きく上回ったのであろう。

想定外の黒鯛を釣ったという嬉しい現実と、スカリが破れてすべてが夢の中の出来事だったかのように消え去った。残されたのは破れたスカリだけ。そぼする雨の中、不覚にも声を上げて涙が出た。しばらく、おいおいと泣き続けてしまった。運が良いのか悪いのか、自分の置かれている境遇がたまらなかった。

釣りは誰に自慢するためのものでもなく自己満足の世界だ。己の記憶の中に確かに好敵手と渡り合い取り込んだ、という記憶さえあれば満足ではないか。とも、思わないでもなかったが、釣りを始めて一年にも満たなかったオイラとしては勲章が欲しかった。釣り上げたという実績がたまらなく欲しかった。また、翌日の結納の席でそれを披露もしたかったし、それがかなうと思っていた矢先、すべてが零れ落ち、崩れ落ちた。

小一時間ほど呆然としたが、なんとか気力を振り絞り釣りを再開した。さっきのやつらはまだ近くにいるはずだ・・・しかし。振り絞った気力を支えるほどの集中力を出せるはずも無く、さらにそれを裏付ける実力も無かった。そのまま何も釣れないまま渡船の迎えが来た。
10年前の蒲刈周辺のチヌ釣りの状況としては、いまより遥かにチヌの数も型も出ない感じだった。

当時は、チヌフカセ師の数もさほど多くなく、レベル、アイテム、情報もいまよりは劣っていたのかもしれない。

10枚釣ったら英雄、48センチクラスを釣ると「○○島の48」とポイントに名前がつくほどだった。年間にあがる50センチを越える「年無し」の数も渡船の客全体で2―3枚程度だった。それだけに逃がしたチヌはオイラの中でかなり大きな重石となった。

しかし・・・

なかなか、誰も体験しないような体験をした。今ではこの事が、その後数年のチヌ釣りを支えたと思っている。

結婚を前に、「何事も安易に安心してはいけない」「備えは万全としないといけない」「常に最悪の状況を予測し、いつでも対処できるようにしなくてはならない」といったことを学べた。

そして、「なんとしても、あのチヌよりデカイチヌを釣って今度こそちゃんと持ち帰る」という執念にも似た情熱を抱いた。

そんなこんなで、オイラのチヌフカセ道はここからスタートした。

正直、チヌに憧れを持っていた友人Nや会社の上司を出し抜いてやろう、という悪戯心程度で始めたチヌ釣り。シーバスのルアーフィッシングに憧れを持っていたオイラはそれなりの型を釣ったら、もうチヌ釣りはしないつもりでいた。

この事件が無く、無事に50センチ弱の逃げてしまった黒鯛を持ち帰り、魚拓をとり、結納の席で振舞うことが出来ていたら、チヌ釣りはそこで卒業し、違う釣りをしていたか、ゴルフでもしていたかも知れない。

それどころか、結果オーライ、ビギナーズラックを満喫し、世の中の厳しさや怖さを知らずに今とは違う人生になっていたかも知れない。それまでのオイラは安易で気楽な人生を何も考えずに進んでいた。本当に人生の変わった「分岐点」となった一日だったと思う。

そして、あのサイズをビギナーズラック以外で手にするには「上手くなるしかない」と気づいたオイラ。
正式にKさんに入門し弟子となり、「TEAM黒鯛」にも入部し腕を磨くことにしたのであった。

(つづく)

自分史 黒鯛三平物語3

時代は1999年3月に逆戻りします。

「黒鯛三平自分史③」

ダンゴ釣りから、いきなり磯に出てのフカセ釣りに転向したオイラ。
通常、ある程度、防波堤なり、地磯なりで経験を積んでから渡船で沖磯に、という人がほとんどだと思うけど、
「人生、行き当たりばったり」
のオイラとしては、出会いはチャンス、チャンスはのっかとけ、という主義、というか体質なので、渡船での釣りを繰り返していました。
しかし、護岸でのダンゴ釣りのような訳にも行かず、悩みを繰り返していたが、救世主達「TEAM 黒鯛」の人たちに声をかけられ、本格的な磯チヌ道に邁進する事になったのです。

このクラブの代表で(会長は毎年持ち回りだった)釣具屋さんを営んでいるKさんのところに、チョクチョク(ほぼ毎日)出入りするようになったオイラ。

毎日毎日、ありとあらゆる質問攻め。誠実に豪胆に応えていただいていました。

で、ある週末、土曜日にオイラは得た知識を試すために、一人で磯チヌ釣りに。
「×××に行ってみーや」
と、いうKさんのおススメポイントへ。ばっちり、攻略法も伺って、いざ出陣と、行ったところだった。
そぼ降る雨の中、教えてもらったメソッドでマキエサを撒く。

仕掛けを入れる。潮目を攻める。そして、それを丁寧に丁寧に繰り返していた。

ウキか入る。まさにKさんに教えてもらったとおりの展開だった。
「すげぇ・・・」
と思いながら、なかなかのターゲットと対決。

ガバっと口を開いてあがってきたのは40センチくらいのチヌ。

しばらくボウズが続いていたオイラは喜びの極みだった。
「一匹釣れたら次もつれるよ!!」と言われていたのを思い出し、チヌをスカリにいれ、いい気になって再度チャレンジ。
ウキにパラパラとマキエをかぶせて、アタリを待つ。

実に魅力的なウキの入り方!!!

チヌ釣りに没頭してしまっている諸兄の皆様、チヌ釣りというのは、「チヌの独特の引き」「チヌ釣りのパターン無きパターン」が最高に面白いですよね。

でも、もう一つ!あのウキがジワジワモジモジとしもって行く瞬間、あれってたまりませんよね!!!!!

と、話は戻して、ウキがモジモジと入り込む。あわす。

これまで感じたことの無いパワー。
「とっとんでもねぇ気だ、立っているのも怖えぇくれぇだ」
という感じだった(笑)

無我夢中とはこのことだが、ほぼ10年前のことだが、あの瞬間の事は、今でも鮮明に覚えている。
当時はレバーブレーキ付のリールではなく、ダイワのシーガルZを使っていた。ドラグを閉めていたので、ビビッて何度もフリーにして糸を出した。
竿は、大島の1.5号の4.5メートル。
1.5号とはいえ、短く、細い竿だ。ロッドパワー云々の話ではない。

出して、巻いて、しのいで、腰が砕けて、を繰り返し、浮かんできたチヌは、当時のオイラとしては想像もしていなかった大きな口。
ガッバッと大口を開けて浮いてきたチヌを、モタモタと何度も失敗しながらタモ入れする。
使用していたタモ枠45センチから数センチ尻尾がはみ出ている。

足が震えた。メジャーを当てると47センチ~48センチ。何度も計ったけど、当時はあまり計り方も分かってなく、検寸台に乗せてちゃんと計ったら、48.5~49くらいあったと思う。

実は、その翌日は、オイラの「結納の日」であった。

これを持っていけば、まさに結納に花を添えることができる・・・
などと、思っていたのだが、とんでも無い悲劇がオイラを待ち受けていた。
釣っている最中から、けっこう、風と波のウネリが強かった。
スカリにチヌを入れ安心し、それでも釣っていたが、正直、「今日はもういいな・・・」などと思っていた。
でも、釣りは最後まで何があるか分からない(笑・・・マジで)

マキエも残っており、もくもくと釣りを続けていた。

足元にチヌの魚影がチラッと見えた。
「あっデカイ!!まだ、いるんだ!!!」
と、思った矢先!!不安が脳裏をよぎった

(つづく)

自分史 黒鯛三平物語2

ドモドモ、黒鯛寅次郎です。
第二話です。

呉ポートピアパークのダンゴ釣りで40オーバーをゲットし、ウハウハだった。初心者時代のオイラ。
なにせ、ずらっとならんだジイチャン先生たちほとんどの人が、その場所で40オーバーを釣っていなかった。
自分のラッキーに喜んでいたが、その中の、もともとフカセ師でダンゴをしていた、オジサマが
「ニィちゃん(当時はオイラもニィちゃんだった。だって26歳だよ♪)いいの釣ったね。フカセしたらいいのに。そんなのが一日に何匹も釣れるよ」
という、誘惑のセレナーデのような言葉を発する。

とはいえ、5000円前後の磯竿をやっとこ買っていたオイラに、なにやら金のかかりそうな話は、まるでガード下で飲むのが至極の楽しみの人に、高級クラブでの楽しみを教えられたようで、戸惑いを隠せなかった。

とはいえ、この40センチ級が、いつでもバッタバタと釣れる世界(んな事はないんだけどね)、揺れる想いを体中に感じてしまった。

さてさて。

とはいえ、先立つものが無くもないけど使いたくも無く、ダンゴ釣り自体も楽しかったので、晩秋まで飽きもせず毎週ポートピア詣で。
ダンゴで釣って釣って釣って・・あら、あらら。

11月も終盤になると食いは落ち、12月になると、ジイチャン先生たちの姿もまばらになるほど釣れなくなってしまった。
せっかくの玩具を取り上げられて、ショッキング。

まさに、身も心も「冬がはじまるよ♪」であった。

そんなこんなで、メバル釣りなどをしてみるもいまいち、食味は満足するものの釣り味は・・・

どうしても、チヌが釣りたい・・・と思い悩んでいたら、仕事関係の広告代理店の方に誘われて大島に磯チヌを釣りに行くことに。
よろこび勇んでついて行って、かなり地磯を苦労の末歩いて、「さあはじめましょう」とスタートしたすぐに漁師が来て網を仕掛けられてしまい、ほとんど釣りにならなかった、苦い磯デビューであった。

フカセ釣りという選択肢を得て、これからはこれもありかな・・などと思っていたら近状の「あけぼの釣具川尻店」にて、とんでもない話を聞く。
「この間もうちのお客さんがチヌを10数枚釣って・・・」
「枚数が出ないところでも40アップが4―5枚は・・・」
と、とっても素敵な情報を耳にする。

さっそく、連れて行って下さいっっっとお願いし、初の渡船での釣り。
今となれば、この地区最高の磯のひとつである、柏島の「腰掛」というポイントに下りたものの、ダンゴ釣りしかしてこなかったオイラにとって、この急流ポイントは「新参者への洗礼」かと思うほどだった。

今思えば、よだれ物の潮の流れを前に「どうやって釣るの?」と涙目になっていたのだ。

振り返ってみると、常にオイラは新しい香辛料を求めてコショウを発見した連中のように新しい刺激を常に求めている。我ながら猪突猛進な猪年男である。とまっている事が出来ないのである。

とはいえ、初の渡船釣りはバラシ1枚とゲット2枚。多種多様の他魚もゲットして大満足だった。1月の中旬にもなるとさすがにこの地区も厳しくあまの釣れなくなった。

そんな中、異様にチヌを釣っている連中がいた「TEAM黒鯛」の面々だ。

のちにオイラの師匠となったKさん、Kさんの一番弟子Oさん、Mさんの三人組が空っぽのオイラのクーラーの中に山ほど魚をくれた。グレにチヌにもうワンサカ。

Mさんが「せっかくやるなら、ひとりでやってもうまくならんで、うちのクラブに来てみいや」と誘ってくれた。

当時から誘われることは徹底的に断らない主義のオイラは、さっそく一歩も二歩も踏み出して見ることに!Mさんの紹介でKさんの営む釣具屋さんに出入りするようになり、一緒に釣りにいってもらうことに決定したのだった。

だが、その前の1999年3月20日忘れもしない悲劇がワシを待ち構えていた・・・・

(つづく)

自分史 黒鯛三平物語

ドモドモ、黒鯛寅次郎です。
ネット界でチヌ釣りを伝道し続ける
はねちゃん→黒鯛三平→黒鯛寅次郎

この誕生の物語を残しておきます(いいよ別に^^;)

ネット界では、2001年、21世紀に「釣り代捻出のため禁煙」にトライし、それをキッカケで「黒鯛釣師の禁煙日誌」という日記うぇぶサービスの提供する、日記サイトで、ネットデビューを果たしました。

思えば、そのころが一番「腕を磨くこと」に没頭しつつ、悩みぬいていた頃でした。

その頃のハンドルネームは「はねちゃん」でした。当時のオイラのあだ名でもあったのね。
最近、ワシは・・・などと、いつも使っている言葉を使っていましたが、当時はここんところ使い出した「オイラは・・・」という感じでした。
初心に戻るつもりで、オイラに戻したわけ^^

オイラが釣りをはじめたのは平成10年の夏。

それまでは、釣りをしようとも思っていなかった。不仲な父親が釣り師で、釣りをすると親父みたいだなぁ。。。などと思っていたことと、若い時分は「ダイヤルQ2」やナンパで女の子の尻ばかり追いかけていた。

そんなワシが、釣りに目覚めたのは、保育所から一緒で、仲が良いような悪いような、それでいて信頼できる・・・まぁ親友なんだろうね、N氏が釣具店に勤め始めたのがキッカケだった。

当時、まるっきり釣りをする気の無かったオイラだけど、不思議とNの誘いは断らなかった。

これも運命なのかな???

他の友人が「釣りに・・・」と誘っていたら絶対にスタートアップしていなかったと思う。
そんなこんなで、無理やり誘われて始めた釣り。
夏の夜釣りのチョイ投げ釣りからスタートしたものの、これがまた楽しいやら楽しいやら。
いまでも、なんとなく思うんだけど、オイラは投げ釣りのほうが向いてるのかな・・・などと。。
まあ、釣ったね。めちゃくちゃ、憎まれるほど釣った。
中堅投げ釣り師だったNがほとんどボーズのようなときも
2―35くらいでキス釣りまくったり・・・

真鯛、コチ、カワハギ、キス、コチ、オニオコゼ(奇跡に近いぞ)、カレイ、アイナメ、30センチ近いベラ、なんと投げでメバルまで!とにかくチョイ投げ竿で釣って釣って釣りまくった。

そんなオイラだったが、不思議につれなかったのが黒鯛
友人Nも「どうしても釣りたい魚」というミステリアスなチヌ・黒鯛という魚に、興味深々になった。
どうしても、Nより先に釣りたい。
逆に信頼し、仲が良いからこそ、ライバル心が燃え上がるのだろうね。
という、気持ちが日に日に膨らんでいた。
と、いう事で、Nには内緒で釣り本をむさぼり読み、チヌという魚の釣り方を研究しまくった。
今になれば、そういう人たちに役に立つサイトを作ろうと思っているのかもね・・・

さてさて。。。

黒鯛を釣るには、どうもエサを撒いて釣る様だ、でも当時、なにやら古臭い本を読んだようで、チヌ釣り=夜釣りのような感性になっていた。(チヌフカセ釣り全盛の時代に古い本を読んだもんだ^^;)
で、夜な夜な、夏の夜釣りの、プチ・フカセ釣りを実践!!

30センチに満たないようなカイズを山のように釣った・・・

でも、これじゃNに自慢も出来なきゃ、報告も出来ない!!

と、さらに燃えていた気がする。逆にこのとき、運よく50クラス釣ってたら、オイラの釣りは終わってたな・・・

と、いう事で季節は秋に・・・黒鯛釣り界は夜のフカセからダンゴ釣りのシーズンに。

呉ポートピアランド、今で言うところ呉ポートピアパークだが、このいまでは埋め立てられている場所がチヌダンゴ釣りの聖地であった。

何度もかよい、地元老人達の指導を受けつつ、一発目のチヌなんと、一発目のチヌが41.5センチというなかなかの良型だった。初めて30センチを超えるチヌを手にしたのがキロ級のチヌで、オイラとしては自分の才能を疑わずにいられなかった(爆)

つづく